エゲレスとは、こーゆーところてす。
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 年々華美になるクリスマスに取り残されたような気持ちになる英国人がいることを 「システムとしてのクリスマス その3」 でお話しました。 でも、長くなり過ぎたために途中で書くのを止めてしまいました。 本職が忙しいにもかかわらず、 頭の中はこのような分裂した妄想がいつも飛び交っております。 本当にお伝えしたかったことは、「暗愁とクリスマス」との関係でした。 つまり、この話はクリスマスという「祈り」の祭典と「暗愁」との関係で完結させるつもりです。 かつて20年以上前までの英国の日曜と言えば、どの宗派のキリスト教会も信徒で溢れかえっていました。 牧師の話を聞いて、心を沈めては、神に祈りを捧げたのです。 もうお気づきでしょうか。 祈りの行為そのものが、暗愁に浸ることや、瞑想に耽ることと同じモードなのです。 自分に対峙する機会を「祈り」という習慣で維持していたのに、彼らはいつの日にか忘れてしまったのです。 自分に対峙することは、神との語らいの機会であるかもしれませんが、 実際は自分自身との語らいとは言えないでしょうか。 故遠藤周作氏の作品「沈黙」を読んで頂くと、拙の言わんとするところもお分かりいただけるかもしれません。 ここ数年、クリスマスといえどもキリスト教会が信徒で満席になることはほとんどありません。 我々は誰もが歴史から学ぶことが出来るだけに、このクリスマスの姿を見て、将来の英国の姿を想像してしまいます。 祈りを放棄してしまったことは社会現象であり、それを解明することもそう難しいことではありません。 でも、そのことに触れるのは次に機会があれば…、ということにしましょう。 古代文化の盛衰に触れることになるので、ちょと長い文章になってしまいます。
最後に、一つの考えをお伝えします。
しばしば経験することなんですが、
対話の後に空虚感を覚えたり、個々人の体裁の良い言葉使いが、とても軽妙に感じることがあります。 祈りという習慣を放棄した人、愁う感情を避けて通る人、あるいは思考を熟成する時間を忘れた人々の心に触れたのかなあ、と思うわけです。 それとも、単なる思い過ごしでしょうか。 古代からの叡智として2000年近く続いてきたキリスト教が、ここ2~30年で形態を完全に変えてしまったことは明白であります。 それは、長年続いて来た「あるシステム」の崩壊であり、再編成の段階にあるということなのかもしれません。 頻繁な技術革新やシステム革新に人心がついて行けない状態は、産業革命ごろから多くの科学者が提議しつつある倫理観でもあります。 かつて、1970年ごろ(?)手塚治虫の漫画「ミクロ三勇士」の主題歌でも、「心を忘れた科学には幸せを求める夢が無い」と表現しております。 で、どのように世の中が変わっていくかは漠然としていますが、とりあえず人間は生きる、ということですね。 「システムとしてのクリスマス」は以上で終了。
お断り;拙はキリスト教信徒ではありません。原始仏教徒に近いかな、と思います。つまり、教義は特になくて「瞑想」と「思考」の徒であります。「悟り」まではとても、とても…。 PR
深いですね
手を合わせるのは、外向きの心を内側に向けるためだ・・と思うのです。
そうですか、キリスト教というのはそんな風になってしまっているのですか。 団結力ではイスラムに負けてしまいますねえ。こんな風に宗教をとらえたくはありませんが・・。 Re:深いですね
>手を合わせるのは、外向きの心を内側に向けるためだ・・と思うのです。
そういう意味があるんですね。拙の場合は瞑想だ、と言っては寝転んでしまうために直ぐに寝息が聞こえると言われます。呼吸が深いだけなんですけどね。 教会はいつもガラガラです。そもそも日曜にサッカーの行われる時間を考えると完全に教会無視です。 |
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