エゲレスとは、こーゆーところてす。
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暗闇の中に立たされる、とします。 そこに一点の明かりが見える、とします。 我々はそこに注目し、その方向に歩を進めようとするでしょう。 その一歩の始まりから、 我々の祖先は空間と時間との認識を始めることになったのではないか、と想像するのです。 まず、その一歩とは我々と月との距離であり、 月が我々を巡る周期ではなかったのだろうか、と。 太陰暦とはまさに月の動きを分析し、システム化したものであります。 言い換えれば、光陰とは我々の生活を律する指標として機能し始めたのではないかな、と。 我々が月の周期を意識するには暗闇が必要だったわけで、 それは太陽暦が採用される近代までシステムとして機能していると思うわけです。 そして、クリスマスとは太陰暦の時代に、 冬至を楽しく過ごすために意図的に盛り込まれたイヴェントなのではないかな、 と、キリスト教徒が嫌がるような想像をしてしまうのであります。 その根拠はたくさんあります。 暫くの間、クリスマスについて拙の知るところ、思うところを語ろうかな、と思います。
ヨーロッパの冬至の暗さは相当に長い時間です。 夜明けは朝8時、日没は3時半になります。 明るい時間が7時間半ですが、大気が不安定なので、 日照時間は短く、路面はいつも濡れたままです。 逆に夏至のころは朝4時、日没は10時になります。 夏は暗闇の時間が6時間しかありません。
19世紀の終わりから電化が進み、暗闇の時間は徐々に短くなりました。 人類が暗闇から解放されたのは、つい最近のことになりますが、 これで生活だけでなく、思考方法も格段に変化することになったのではないでしょうか。 作家の五木ひろゆき氏がいくつかの著書の中で「暗愁」という言葉使っています。 彼以前にこの言葉使った作家は正岡子規と言われています。 子規の時代以来、日本でも電化が進みました。 我々は明るさの中で暗愁を忘れてしまったのかもしれません。 暗愁とは心の闇の中で自分を見つめることです。 瞑想では、明るいイメージを頭の中に展開することも可能ですが、暗愁に浸ることも可能です。 「なんだ、単なる根暗じゃん」と思った方は暗愁に浸れない方かもしれません。 この暗愁から様々な哲学思考が生まれたと言っても過言ではありません。 「元気に明るく、ポジティブシンキングぅ」というのも大事ですが、 現実を見ない楽観的態度や、 熟考を重ねた上での考えでない限り、 内容の伴わない積極的行動は、 ブレーキの壊れた自転車が、 上り一方通行の神楽坂を逆行するようなものです。 単にメーワクなだけです。 言いたいことは、冬至の前後で多くのヒトが暗愁に浸る時間を持っていた、ということです。 「眠れぬ夜」というのは心理学者たちが抱えてきた長年のテーマでした。 疲れていても、頭脳が働いてしまえば眠れません。 クリスマスのことでも考えれば、楽しくて良いですか? 次回はクリスマスと暗愁との関係でも。
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無題
そうですね。冬場なんか日の昇る頃出かけて、帰る頃もやっぱり真っ暗、日中は薄暗いレクチャーシアターで講義の毎日でしたからね。
皆英国の天気には参る、毎日曇るばかりとはよく言いますが、キャンパス構内の青い芝・鉛色の雲・茶色の落ち葉と重厚な石造りの建物群の織り成す佇まいはそれでいて乙なものですよね。 私の場合、「忙しすぎて」眠れなかったのですが、課題に飽きたときなんぞ、夜明け近くの闇に浮かび上がる木々を眺め様々に思いをめぐらせてましたね。「暗愁」という言葉のせいか、どこかうら寂しさも漂いますが、別に暗くなるのではなく、しいて言えば存在の本質に向き合う時間とでもいうべきでしょうか。
最近
星をゆっくりと見る機会がありませんよね。昔の方々はあの星を眺めながら、幾多の物語を作る想像力を持っていたのにね。
明るすぎる社会ってのは、想像力を失わせるのかもしれません。
闇があるからこそ
休めるのではないでしょうか?光の中ではやすめませんからね。24時間暗闇をなくすことが出来て、損しているのは結局人間かも。
ずばりイヴェント
> …イヴェントなのではないかな…
「ないかな」ではなく、ずばりイヴェントなのです。起源は古代ローマの某宗教が行っていた冬至祭。その宗教では、太陽神を拝んでいたそうですよ。 Re:ずばりイヴェント
そうですね。読者にはご存知の方も多いでしょう。
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