昨日、ヴィクトリア時代に造られた下水道システムが老朽化したので、
オリムピック前でもあるし、そろそろ開発しなおさないとあかん、という報道がされました。
以下は英文でありまする。
http://politics.guardian.co.uk/homeaffairs/story/0,,2040360,00.html#article_continue
その費用は少なくとも20億ポンド(約4800億円)
一体誰が払うんでしょうねぇ。
現在のものを造った人物を旧ブログで紹介したのは、もう2年も前なので、
以下、ちょいと貼り付けちゃいました。
Bazalgetteという下水屋
Sir. Joseph Bazalgette
サー・ジョーゼフ・バザルジェット
土木技師なんだが、それだけではない。1875年にはナ イトとなり、Sirの称号を得た。19世紀の中頃にロンドンから汚物を一掃するシステムを作った中心人物。
1666年のロンドン大火の後に現在のロンドンの建築の原形、英国式バロック建築を創出した天才、クリストファー・レンにも相当する功績を上げた人物として評されている。日本で言ったら、丹下健三かな。
下水事情は古代から大都市の重要な課題だった。日本で言えば、奈良時代前後は上下水道問題とゴミ問題で遷都が頻繁に行われる要因になったと言われるほど。他にもオリエントと呼ばれた地域も人口が集中し、川幅を狭めてしまったために、上下水道の便が人口増加に追いつかなくなり、都市衰退の原因になった。同様のことはイスラエル周辺、ギリシア、ローマ半島各地でも起こった。文明は人間自らが出すゴミと汚水に破壊されたわけ。
19世紀のロンドンはそういう文明都市の運命をなぞるように、不潔で危険な都市になっていた。1666年のロンドンの大火というのは、犠牲者には悪いがコレラの病根を断ち切ったという説もあるくらい、きれいさっぱりと焼けてしまったんだが、再び都市が機能を回復すると、疫病の勢いは再興し、その媒介原因である汚物処理と水質の浄化は都市の最大の問題となった。
「ロンドンが古代都市のように滅亡してしまう」
そういう危機感を抱いた人物は19世紀にはたくさんいた。1856年にメトロポリタン・ボード・オブ・ワークスという会社はロンドン全体の下水道を何とかしようという主旨で創設された。そして、その問題をグランド・マスター・プランで見事に解決した人物がバザルゲットだった。彼は1889年に同企業がロンドン市に買い取られるまでの33年間をこの事業の中心人物として技術マネージメントに従事した。幾夜も続けて徹し、半年以上も泊り込んで仕事をしていたそうだ。奥さんも大変だったろうなあ。
1853年から翌年の一年間にロンドンでは10,738人がコレラで一気に亡くなった。しかし、その原因が汚水にあるとは誰も信じなかった時代だった。僅か150年前のことだ。58年にはテムズ河畔の人々、つまり国会議事堂に通う政治家たちの間でも「偉大な悪臭の街、ロンドン」と言われるに至って、下水道整備が立法化され、1866年までにバザルゲット主導のもと、ロンドンの殆どが下水道ネットワークで繋がれることになった。汚水は枝水管から川に流れ込む前にこのネットワークの管に流れ込んで、エンバンクメントの地下にある汚水処理施設で浄化されるシステムが整備された。
この時、イースト・エンド地域はこのネットワークのプログラムから外れていたので、同年66年にコレラで大量の犠牲者を出すことになった。しかし、シティとウエスト・エンドからはまったく病人が出なかったことから、コレラの広がる理由をようやく多くのヒトが認識するようになった。1898年にドイツのハンブルグでもコレラで9000名近い人々が犠牲になった。これを機にロンドン市はハンブルグに下水道整備を警告しただけでなく、英国の下水事業技術の売り込みをしたことは言うまでもないだろう。
今でも、バザルゲットの作ったSewer Systemはロンドンを清潔な街に保つ原動力となっている。
彼のモニュメントは3つ。写真のようにVitorian Embankment沿いに埋め込まれたもの、住まいだったセント・ジョーンズ・ウッドの17Hamilton Terraceにはブルー・プラーク、そして墓がウィンブルドンの教会にある。
参考資料 "Great Stink of London" £19.99 アマゾンで買えます。和書名にしたら、「チョー臭いロンドン」には、ならない?
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