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エゲレスとは、こーゆーところてす。
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つまんないタイトルですな。

上は近所のバプテスト教会のクリスマス・サービスのスケジュールです。

と、記事を書こうと思いましたが、出かけなくてはなりません。

現在英国時間の間もなく正午、

これからクリスマスデナー第一弾であります。

では、また明日。

 

 

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子ども達の学校は今日から冬休みに入った。

昨日は半ドンだった。

娘は名前も告げずに「友達の家でごっそーになる」と昼から夜までその友達に逢っているらしい。

父は相手を知っているが、知らぬふりを決め込む。

息子は友達2名をスリープオーヴァー(お泊り会?)に誘いたい、と言うので、

結局拙宅では4名分の食事を作る。

息子、ダギー、グレン、自分、・・・妻。

あ、5名か。

海鮮ぺペロンチーノ牧歌風のシーフードがちょと足らん。

学校で息子とその友人たちをピックアップする時に、

校長やら、教頭が近づいて来た。

今学期、息子は成績を下げたからお小言を頂戴するのかなあ、と心配するも、

「クリスマスはどこかへ行かれるんですか」と来た。

「いいえ、来年から暫く英国には戻れないと思うので、今年は親類とまったり」

「それは良いですね。では、メリークリスマス」

「はぁ、メリークリスマスツーユーツー」

何も「メリークリマス印の汁」が2つあるわけじゃないが、

お決まりの挨拶としてはこうなる。

実は、Merry Christmas, Happy Christmasという類のコトバに馴染めないまま

20年以上を英語文化で生活している。

キリストに関わる単語で挨拶されるので、

こちらとしてはイマイチ心がこもらないのだ。

仏教徒なのでクリスマスなどめでたくも何もないのだ。

巷にはGod Bless YouやAll the Best や  Dear や Love を多用する、なぜかすきっ歯の醜い白人種が散在する。

例えば、新聞売りのオバちゃんなど。

こちらも神に仕えるものとしてのコトバである筈なのに、殆ど挨拶コトバとして使われる。

語源が気になって素直に使えない拙としては、

挨拶に関しては、たださえ簡素になりがちなのに、使えないコトバが多すぎる。

宗教的意味合いを持っていないコトバを駆使するべきなんだろうが、

先日、世話になった医師の事務所から出るときに、咄嗟に出た言葉が、

"Thank you very much, Dr.Sammy and Mery Christmas to you and your family"

心がこもっていれば、いいのだろうか?

Dr.Sammyは満面の笑顔で拙にも同じ言葉を返したが、

彼はパキスタン系英国人である。

でも、イスラム文化の挨拶は知らんし。

 

 

プレゼントを考えるのはカッタるいですねえ。

時間とお金の無駄だと思うんです。

だって、26日からバーゲンなわけですし、

3割4割引きは当たり前になるんです。

貰っても有り難味が薄れるというヒトの声も聞こえます。

返品できるものであれば、

元の値段で返品して、違う仕様のもの選びなおしたり、

同じものを買いなおして、差額を懐に入れるヒトもいるそうです。

なんだかアホらし。

ある友人宅の場合、親類縁者と協定を結び、クリスマスプレゼントの交換もお金のやり取りも絶対しないそうです。極端な場合はクリスマスカードも紙の無駄使いだから行わないのだそうです。

でも、彼らは決して貧しくありません。むしろ金持ちで、家には家人の数よりも車が多かったりします。しかも、皆燃費の悪い車種です。環境問題に対する姿勢と行動が矛盾しています。もちろん、面と向かって言うつもりはありません。彼らの環境問題やその意識にも、出来ること、出来ないこと、気付かないこと、気付こうとしないこと、気付いても「ま、いいか」と思うことなどの「都合」があるのです。環境都合主義者であります。

「モノは欲しいときに手に入れるのではなく、必要だという結論に達したら手に入れるもの」なのだそうです。

裕福であれば、大概のものは手に入るでしょうから、何でも持っている彼らにはプレゼントなど不要なわけです。

拙の縁類にもずば抜けて裕福な元サッカー選手クライブの家族がおりますが、いつもプレゼントには困ってしまいます。

http://en.wikipedia.org/wiki/Clive_Allen

拙は毎年プレゼントを止めることを親類縁者に提案していますが、妻方の家族は誰も聞き入れてくれません。拙方の家族は何も送りあいません。有難いことです。

「無いものをあげるなら、日本語教材でもくれてやれ」

と言ったところで、「欲しい」や「必要」の需要が無いところにモノを放り投げてもゴミになるだけです。

今年、妻は少し気の利いたプレゼントをクライブたちのために用意しました。

それが、これであります。

https://secure.wwf.org.uk/adoption/index.asp?ext=true&pc=ADF005002#Ileach%20dolphins

クライブたちはクリスマスからイルカの里親になるわけです。

無形のもので感動を与えるなんざ、ちょといいのではないか、と思った次第であります。

社会貢献のシステムは細部にまで行き渡りつつあります。

 

 

年々華美になるクリスマスに取り残されたような気持ちになる英国人がいることを

 

「システムとしてのクリスマス その3

 

でお話しました。

 

でも、長くなり過ぎたために途中で書くのを止めてしまいました。

 

本職が忙しいにもかかわらず、

 

頭の中はこのような分裂した妄想がいつも飛び交っております。

 

本当にお伝えしたかったことは、「暗愁とクリスマス」との関係でした。

 

つまり、この話はクリスマスという「祈り」の祭典と「暗愁」との関係で完結させるつもりです。

 

 

かつて20年以上前までの英国の日曜と言えば、どの宗派のキリスト教会も信徒で溢れかえっていました。

 

牧師の話を聞いて、心を沈めては、神に祈りを捧げたのです。

 

もうお気づきでしょうか。

 

祈りの行為そのものが、暗愁に浸ることや、瞑想に耽ることと同じモードなのです。

 

自分に対峙する機会を「祈り」という習慣で維持していたのに、彼らはいつの日にか忘れてしまったのです。

 

自分に対峙することは、神との語らいの機会であるかもしれませんが、

 

実際は自分自身との語らいとは言えないでしょうか。

 

故遠藤周作氏の作品「沈黙」を読んで頂くと、拙の言わんとするところもお分かりいただけるかもしれません。

 

ここ数年、クリスマスといえどもキリスト教会が信徒で満席になることはほとんどありません。

 

我々は誰もが歴史から学ぶことが出来るだけに、このクリスマスの姿を見て、将来の英国の姿を想像してしまいます。

 

祈りを放棄してしまったことは社会現象であり、それを解明することもそう難しいことではありません。

 

でも、そのことに触れるのは次に機会があれば…、ということにしましょう。

 

古代文化の盛衰に触れることになるので、ちょと長い文章になってしまいます。

 

 

最後に、一つの考えをお伝えします。

しばしば経験することなんですが、

 

対話の後に空虚感を覚えたり、個々人の体裁の良い言葉使いが、とても軽妙に感じることがあります。

 

祈りという習慣を放棄した人、愁う感情を避けて通る人、あるいは思考を熟成する時間を忘れた人々の心に触れたのかなあ、と思うわけです。

 

それとも、単なる思い過ごしでしょうか。

 

古代からの叡智として2000年近く続いてきたキリスト教が、ここ230年で形態を完全に変えてしまったことは明白であります。

 

それは、長年続いて来た「あるシステム」の崩壊であり、再編成の段階にあるということなのかもしれません。

 

頻繁な技術革新やシステム革新に人心がついて行けない状態は、産業革命ごろから多くの科学者が提議しつつある倫理観でもあります。

 

かつて、1970年ごろ(?)手塚治虫の漫画「ミクロ三勇士」の主題歌でも、「心を忘れた科学には幸せを求める夢が無い」と表現しております。

 

で、どのように世の中が変わっていくかは漠然としていますが、とりあえず人間は生きる、ということですね。

 

「システムとしてのクリスマス」は以上で終了。

 

 

お断り;拙はキリスト教信徒ではありません。原始仏教徒に近いかな、と思います。つまり、教義は特になくて「瞑想」と「思考」の徒であります。「悟り」まではとても、とても…。

 

 

12月なので、2007年の手帳つくりを始めました。

 

もたもたしていると、予定は立ちませんし、時間はどんどん経ってしまいます。

 

徐々に減価償却していく肉体の変化を意識させてくれるのは、

 

年の中にあるいくつかの節目です。

 

特にクリスマスなどのホリデーシーズンには人生を振り返り、

 

また、行く先々を負担に感じてブルーになるヒトは英人と言えども少なくありません。

 

それは楽しみのシステムとしてつくられたクリスマスに対する反作用と言えるのではないでしょうか。

 

「システムとしてのクリスマス その2

 

で述べたように、クリスマスとは文化人類学的には「ハレの日々」であります。

 

冬至の鬱々とした日々を出来るだけ楽しく過ごそうと願う欧州人の工夫なのではないか、と思うわけであります。事実、最近のラジオを聞いていてもクリスマスソングや賛美歌が大勢を占めています。クリスマスを目ざして、冬至にも関わらず明るい顔が出来るのもこの行事のお陰だったんだろうな、とディケンズの世界を思い浮かべたりするわけです。

 

そのハレの日をシステム化するために、あるいは結果的にシステム化されるために時間を特定するモノサシになったのが暦ではないかな、と考えるのです。

 

月の周期で1年という暦の枠を作り出し、その節目節目の中でもクリスマスや正月を創り出したなんてのは人類の叡智なんじゃないか、と想像すると楽しくなってしまいます。

 

でも、実際にクリスマスに参加している大人たちは必ずしも楽しんでいないという話に繋がるわけですが、

 

楽しくないのは、このシステムの限界なのかな、

 

と思うことがあるからです。

 

その理由は、信仰心の欠落、と仰る方々も多いでしょうけど、

 

それ以上に、本来の祈りの儀式であることを忘れ、

形式化し華美になったクリスマスと、

 

その生活を支えるために抑圧された大人たちが抱える虚無感との間に

 

大きなギャップがあるのではないか、と思うのです。

内実の伴わない現実から感じられる虚無。

 

実は、この説は、自殺の傾向性を辿るある精神学者も似たようなことを言っています。

 

抑圧された精神状態を持った人々が行動を起こしやすくなる季節があります。

 

北半球では5月、南半球では11月という似た様な季節が自殺行為のピークになるそうです。

 

クリスマスブルーという鬱状態は明るい季節の太陽を浴びた途端に、抑鬱のピークを迎えるという意外な現象があるということです。

 

子羊は何月が一番旨いんだっけ? というのはこの際不謹慎ですね。…か?

 

既出の理論ではありますが、人生を支える5つのピラー(柱)とは友人、家族、家、趣味、仕事の5つのことであります。

 

この5つの要素のうちの3つ以上を同時に変えると、性格破綻を起こすそうです。

 

おまけに、日本での生活を主にしてきた我々邦人の多くが英国生活を始めて直面するのは、言語と文化の喪失です。

 

在英邦人の方々の中にはこの5つの柱だけでなく、6つ目の言語、7つ目の文化の存在を意識したことも多かったことでしょう。

 

過去に拙が24日のイヴにキャロルシンギングに参加し、行き慣れない立ち飲みのパブで英人たちと語らったのも、喪失ではなく新しいものを受け容れようとしたからです。

 

でも、それは無駄な努力であり、努力してはならないことであり、意味のないことだったなあ、と思ったことがあります。

 

最初の数年間こそ、もの珍しさも手伝ってクリスマスは楽しいものに思えましたが、年を重ねるごとに学び取ることは、拙の知るクリスマスと、彼らのクリスマスとはまったく違うものであることに気付くのです。相手を尊重するから、相手の懐に入って行こうと思っても、たくさんの目に見えない壁を感じました。

クリスマスだから、昼間から酔う。クリスマスだから、仕事は放っておく。クリスマスだから、クリスマスだから、…と言えばなんでも許されることに慣れてしまった英人たちに憤り、諦めを感じた邦人は少なくないでしょう。

 

因みに、拙は小学生の頃、近所に住むドイツ人宣教師の日曜学校に通う生徒でした。暗証聖句は欠かしたことがありませんし、キリスト教の基本的なこと判っていたつもりですし、学生時代以来、宗教学、歴史学はある意味で専門分野であります。

 

しかし、その精神世界の違いを学んでいながら、実は運用できていなかった、皮膚感覚で英国の文化に馴染んでいなかったというお話です。

 

もちろん、20年越しの現在でもあまり馴染んだとは言えないと思います。ただ、出来ることは彼らを認め、拙も認めてもらうという個人主義的な生活が英国では可能である、ということです。

 

 



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